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作品における、「狂気」というNGワード

それを「狂っている」と断じる作品のいったい何が面白いというのか。

フーコーの『狂気の歴史』については概要を知るにとどまっているが、思うに、「狂っている」という言葉は状態の描写ではなく、対象の存在を否定し排除するためのものである。「狂っている」という言葉によって、彼は対象の存在から目を背け、社会その他の権威をかさに着てその存在をなかったことにする。
目を背けるための言葉なのだから、「狂っている」という言葉で物事の本質それ自体が描写されることは決してない

自分は作品を読む際、地の文で「狂っている」と書いて説明した気になっているのを一節見ただけでその作品はゴミクズであると断じたくなる。「狂っている」という言葉を自己陶酔のために使っているのとかは、燃やしてやりたくなる。
自分の眼がボンクラであることを棚に上げて、理解できないものを未処理のままにさらけ出しているのと同じである。それに気づかない作り手は「恥を知れ」と言いたくなるくらいに憎らしい。いわゆる中二病をこじらせた作品によくあるものである。

自分は、作品が中二病的であることを否定するつもりはない。「中二=極度の自己絶対化」とするならば、それは近代小説の在り方そのものだからだ。ただ、その自己絶対化が描写のためではなくただの自己満足に用いられるのだとするならば、ラノベだろうが純文学だろうが等しく非難されるべきであると自分は考えている。それさえ守れているのならば、たとえラノベであっても立派な作品だ。
自分が作品というものを観る際の尺度の一つとして、「狂う」という言葉の使い方は明確な基準として存在している。


もちろん、近代以前の古典となるとそうもいかないのだけど。自身の理解の範疇を超えた振る舞いを、「悪霊か何かに憑かれて狂ったのだ」と断ずるのは、古典ではよくあることだから。


やはり作品というものは、可能な限り正気であることを志して書かれるべきだと思う。ファッション狂気は、所詮ファッションでしかないのだ。

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かうんたぁ
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ごてぃ

Author:ごてぃ
茨城から都内の大学院に通う人
専門は中国近現代文学のはず
文章を書かせると人格が変わることに定評があるらしい
「誰だか知らないけど有名人っぽい」と意味不明な事を言われる
黄昏をこよなく愛する男。

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