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キャラ萌えだからこそ、作品内の論理は厳守しなければならない

どう見てもコテコテのヲタ向けコンテンツのラブライブだが、非ヲタの中高生に異常な人気を誇っている現状に戸惑いを隠しきれない昨今である。

ほんと、今の深夜アニメって、クッソつまらなくなったゴールデン番組を離れた若者のために存在しているのだと改めて痛感する。
おそらく昔自分らが仄かな背徳感と連帯感を抱きながらトゥナイト2とかギルガメとか見てたのと同じ感覚なのだろう。

ところで最近は、いわゆる「クズ」に厳しい世の中である。その傾向は特にネット界隈で顕著だ。
まぁ、劣った者を貶めることは立派な娯楽行為である。例え悪趣味と言われようが紛れもない事実である。それも原理的には実に動物的な娯楽なので、そこに高度な物語性は要らない。理にかなわないと思われる事象を脊髄で批判して、顔が見えないのを良いことに鬼の首を取ったかのように誇ることは、中高生(とそれに等しい脳味噌の大人)にはうってつけのウサ晴らしであろう。

そういう風潮を受けて、中高生の視聴者を多く抱える深夜アニメは、炎上を恐れるあまり、一昔前より「クズ」を作品内に出すことへものすごく気を遣うようになった、という印象である。だから、今の世の中でいわゆる賛否両論の挑戦的な物語設定を考えるのは本当に勇気の要る仕事なのだ。

ところで、普通ならそういう逃げの受け皿として日常系作品が狙われそうなのだが、どういうわけか、ゆゆ式を始めとして2010年代の日常系は積極的に毒や狂気を盛り込むという挑戦的な作りが継続している。正直意外である。ひだまり等と違って続編を考慮していない刹那的な企画方法がかえって功を奏しているのかもしれない。
自分が2010年代の一連の日常系作品をこよなく愛好しているのには、そういう理由がある。

ともあれ、いわゆる日常系作品の特徴としては、徹底的に閉じた関係性の中で、キャラ同士が刹那的にやり取りするのを楽しむ作りになっていることが挙げられるだろう。「壮大な自分語り」で話がどんどんでかくなるセカイ系の在り方とは対極的であるともいえるかもしれない。反動とすら取れる。
そして、であるからこそ、そこには目標は設定されないのが普通である。アニメ版けいおんに対する批判の声の一つとして、「唯の成長物語という追加要素が日常系作品としての枠組みをぶち壊している」というのがあると聞いて、至極納得した覚えがある。そういう例からも分かるように、日常系作品とされるものの中で描かれるのは、原則として「終わりなき日常」である。
(あくまで読者が望むものであり、それが虚構であり、「終わり」は必ず来る、ということを作品自体が匂わせている、なんてことはよくあることだが)

「厳密に閉ざされた空間・関係性」でのキャラ萌えアニメ、という意味では、ラブライブは日常系作品の文脈と重なるところが大きい。
というよりは、結末が設定される類のストーリー重視の作品として存在するには、ラブライブはキャラの造形が明らかにキャラ萌えを想定して作られているし、ストーリー構成は稚拙かつ杜撰すぎる。その代わり、閉じた空間でのキャラ萌えとしてはかなり優秀な出来である。
だから、日常系作品に類するキャラ萌えアニメとしての評価しか成立し得ない、といった方が正しい、と個人的には思う。

ただ、この「厳密に閉ざされた空間・関係性」(ここではμ's内に限られる)でのみ完結する物語としてラブライブのアニメを考えると、主人公である穂乃果が途端に物語にとって異物へと変貌する

リーダーである高坂穂乃果は、良くも悪くも普通の女子高生として描かれている。
普通、といったのはつまり、女子高生としての欲求に限りなく忠実という意味である。脚本構成が粗雑なだけかもしれないが、不満があればそのまま口にする局面は何度もあったし、二期では食欲に抗えずダイエット失敗する話も追加された。
そして一期の終盤で、頑張り過ぎるあまり体調管理を疎かにして倒れてしまい、そこからの災難の連続により、メンバー内で唯一ラブライブ出場を辞める決断を下した。
この辺は当時やたら批判された所である。ただし、「どこにでもいる普通の女子高生」としては、こういう「状況」に追い込まれた時の反応自体はリアルだ。その点自体はちゃんと認識されるべきだ。

しかし、たとえキャラとしては「現実らしい」としても、こういう「状況」をラブライブという作品内に持ち込んだ製作陣は大いに批判されて然るべきなのである。
前述の通り、徹頭徹尾刹那的かつ閉鎖的なキャラ萌えアニメとしての構造を持つラブライブにおいて、その閉鎖性を不用意にぶち壊すことは、作品の論理として破綻しているからだ。

ここで穂乃果に「現実らしさ」を持たせかつ理にかなう形で作品内に存在させるためには、μ'sの「外部」をしっかり描かなければならなかった
ラブライブにおいて、μ's以外の人間の描写は驚くほど希薄かつ粗雑である。だから「外部」なんぞ描きようがないし、製作陣も明らかに描くつもりがなかった。μ'sの「外部」を描いて初めて、閉ざされたμ'sから外へ飛翔する穂乃果という奔放なキャラが力を持つはずなのだが、「外部」がないのであれば、穂乃果は作品内の論理に従わず理にかなわない行動を取る「クズ」としてしか視聴者には認識されない。その結果、カタルシスの伴わない不快感だけが虚しく残されるのだ。そうなると、少なくとも娯楽作品としては失格である。

閉鎖的なキャラ萌えを目指すのか、外部をも含めたストーリー性を求めるのか、両者が悪い意味で不徹底な辺り、ラブライブは非常に惜しい作品である。キャラそれ自体の「可愛さ」という微視的な視点でしか作品を捉えられず、作品を成り立たせるものとしてキャラを作品にどう位置づけていくか、という巨視的な視点がすっぽり抜け落ちている辺り、ラブライブの製作陣が色気出してストーリー性を追い求める資格は皆無である、と自分は思う。

しかし、海外ドラマの数々の劣化コピペをオマージュと言ってのけて粗雑なストーリーを作って恥とも思わないクソ野郎はともかくとして、凡人がちょっと色気出して作品を作ると、程度の差こそあれこうなるのが正直普通な気もする。
彼らとは対照的に、徹頭徹尾作品を成り立たせるために、キャラの閉鎖性を保ち続けるストイックさ、そちらのプロ意識の方をむしろ賞賛すべきなのかもしれない。

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かうんたぁ
プロフィール

ごてぃ

Author:ごてぃ
茨城から都内の大学院に通う人
専門は中国近現代文学のはず
文章を書かせると人格が変わることに定評があるらしい
「誰だか知らないけど有名人っぽい」と意味不明な事を言われる
黄昏をこよなく愛する男。

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