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建設的破滅のススメ

いわゆる一つの宿命について考えてみたの巻


宿命とは、元から定められている巡り合わせ、ということらしい。それはスケールを大きく言うなら超常的なものかもしれない。極小スケールで言うなら己の性癖に起因するものかもしれない。分かりやすく言うと、前者はいわゆる神様とか超俗の理で、後者は例えば高所恐怖症の人間がどう足掻いても高い所に行けないので高い所がどんなものなのか分からない宿命にあるとかそういうことだ。

そして、特に近代以後多くの哲学者が言ってきたように、人間は超常に位置するのではなく結局のところ肉体に支配される存在に過ぎない。だから人間は本来なら、両者の区別を明確に付けることが出来ないはずである。

そもそも人間に宿命は理解出来るのか?それはできる。できるというより、それが宿命だと思ったのならそれはたちまち宿命になる、と言った方が正しい。
理不尽な天災による悲劇に遭ったら自身ではどうすることもできない宿命を感じるだろうし、何かしらの使命を宿命と捉えたら彼は宿命に殉教する革命家だ。逆に言うと、理不尽な天災にあっても何も思わなければ何にもならないし、使命何それおいしいの?な信条ならば宿命に縛られる事も少ないだろう。
人間にとって宿命とはそういうものだ。

ここで間違えてはいけないのは、宿命は未来の道標になる類の占いでは無いということだ。こういう宿命には遭わないようにしようとかそういうのではない。例えば、自分は怠け者の宿命を持っているから、怠け者にならないように気をつけましょう♪とかそういう朝の3分占いでいうのとは違う。治せるのなら治せばいい。努力すれば治せるようなものは宿命とは言わない。宿命とは、どう抗っても打ち勝つことのできない壁である。本来ならば自分で口に出すのもはばかるべき言葉だ。
と、例えば小林秀雄のいうところの「宿命」という言葉を乱用して「これは作家○○の宿命である」と水戸の御老公の印籠さながらに軽々しく使って批評するような人物を牽制する意味でも言っておく(今となっちゃ奇特な人物以外の何物でもないが)。


人が知る己の宿命は己の限界と等しい概念である以上、宿命に従った先にあるのは必ず破滅である(社会的な意味とは限らない。破滅にもさまざまな形がある)。
しかし、人は宿命に従わざるを得ない。抗うだろうが、負ける。勝てるようなものは宿命とは言わない。
されば、人は結局のところ、宿命という線路を辿って破滅という終着駅に向かって生きるしか無い。
ただ、己の辿る路が宿命という線路であることを知覚しているか否かでその後の生き方身の振り方は全然違ってくるだろう。同じ破滅なら、宿命に進んで従って破滅した方が人のためになりそうだ。実に、建設的な破滅である。宿命に対して、我々は挑戦的に従うべきである。



さて、この文章は、自分がこれから文芸を批評する上で宿命という問題をどう扱っていくかについての簡単なガイドラインをメモしたものなので、後は完全に余談になる。

先日貫禄の四選を遂げた石原の「天罰」とやらも、まさしくここで言う所の宿命についての言及であると言える。いろいろ曲解されて広まっている節があるのであえて少し厳密に言うと、被災者が受けた天罰というよりは、日本人の今までの様々な業に対して下った天罰、といった意味で彼は天罰という言葉を使った。東北が受けた災害というより、日本という国が受けた災厄と彼は捉えた。抽象的で(まがりなりにも)文学者である彼らしい言葉とも言える。逆にいうと、「今までの日本人はこういう大惨事を引き起こしてしまうような宿命にあったのだ」と言っているともいえる。
ちなみに彼はこれについて謝罪した後、「地震は私に与えられた天命」という言葉を使ったが、どちらも同じような意味だろう。むしろ後者の方がここでいう宿命の意味に近いかもしれない。

自分としては、被災地を侮辱する言葉では無いとしても、この発言は政治家としてこれ以上ないくらいひどい言葉だと考えている。いわば彼は、「今までの暮らしに対するバチがあたったのだから日本国民はこれを真摯に受け止めて行いを改めろよ、昔みたいにな」というようなことを言ったわけだ。控えめに暮らすことに慣れている老い先短い老人ならともかく、若者にしてみれば言われた所で絶望感しかわかない誰得な言葉である。

さらに言うと、石原は少なくとも政治に関しては元来神がどうのとか言うような思想の持ち主では無かった。木村太郎辺りも「天罰とか言っちゃって、弱気なんじゃない?」と驚く位である。
いわゆる一つの老化現象である。抗うことのできない宿命(往々にしてそれは死である)の力を感じてそれにひれ伏する。どうしょうもない目前の壁に対峙して己が救われるには諦念しか無いということを悟る、歳をとると誰もが辿る路である。宿命である。
いわば天罰云々の発言は、石原自身の個人的な心境の変化から出てきた言葉である。政治の観点で見ると、「控えめに生きなきゃな。自粛しよう」「復興なんておこがましい」という思考が都内のみならず日本全体に生まれる以外に何の効果もない。まさに余計な一言以上の何物でもない。私情以外の理由で政治家がこんな発言をする意味が見当たらないのだ。「昔のように」と彼は言ったが、昔の焼け跡の人たちがあの戦争を日本への天罰と考えていたかどうかは実に怪しい所だ。天罰にひれ伏するばかりの人間に昔のような再興は望めないだろう。

要するに、まったくの私情から損得抜きで政治家としてあの発言をしたわけである。諦念によって魂の救済を望み、また諦念を持つことを若者にも強要するその老いさらばえた姿は、老人の支持(=同情)しか得られない。それでこの結果である。実に許し難い。
かねてより石原の文化方面への言及で腹を立てていた自分だが、そういう理由で自分は石原を政治家としてもできるならば推したくはなかった。都民じゃないから無力だったけど。

宿命という概念を履き違えやがって、文学者としても実に見苦しい。彼は「都政が終わったら小説いっぱい書きたい」とも言っていたが、宿命に対し挑戦的に破滅的に従うことを忘れた老いた魂が描く作品に一体どれだけの価値があるのか?老人には受けるんだろうが、自分は甚だ疑問である。

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かうんたぁ
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ごてぃ

Author:ごてぃ
茨城から都内の大学院に通う人
専門は中国近現代文学のはず
文章を書かせると人格が変わることに定評があるらしい
「誰だか知らないけど有名人っぽい」と意味不明な事を言われる
黄昏をこよなく愛する男。

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